(6)建国5原則(パンチャ・シラ)  インドネシア独立前の1945年6月に、スカルノ(後の初代大統領)が、独立に向けたインドネシアの建国理念として発表。その後、1945年憲法に盛られ、更に66年の国民協議会において、あらゆる法の根源であると規定され、不可侵性を確立するに至った。内容は次の通り。 (A)全知全能の神への信仰、 (B)公正にして善良な人道主義、 (C)インドネシアの統一、 (D)代表者間の協議による全会一致の叡智によって指導される民主主義 (E)全インドネシア国民に対する社会正義 (7)略史 7世紀: スマトラを中心に仏教王国スリウィジャヤ王国が成立。以後ジャワを中心に仏教、ヒンズ−教王国が興る。 13世紀: イスラムの伝来(スマトラ島北部のアチェ地方)。 1512年: ポルトガルがモルッカ諸島のアンボンを占領。 1602年: オランダがジャワ島に東インド会社を設立。植民地経営に乗り出す。 1942年: 日本軍、オランダを破り、インドネシアを占領。 1945年: インドネシア独立宣言(8月17日)。初代大統領にスカルノ、副大統領にハッタが就任。1945年憲法制定。 1965年: 「9月30日事件」(インドネシア共産党によるク−デタ−未遂事件)発生。 1967年: スハルト、大統領代行に就任。 1968年: スハルト、正式に第2代大統領に就任。 1998年: ハビビ、スハルトに代わり第3代大統領に就任。 1999年: アブドゥルラフマン・ワヒッドが第4代大統領に就任。 2001年: アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領解任、メガワティが第5代大統領に就任 2.政治制度 (1)政治体制  共和制(1945年8月17日独立)。国家元首は大統領(初代大統領:スカルノ、第2代大統領:スハルト、第3代大統領:ハビビ、第4代大統領:アブドゥルラフマン・ワヒッド、第5代大統領:メガワティ・スカルノ・プトゥリ)。 (2)議会  国権の最高機関たる国民協議会(MPR)と、法律案の審議・承認を行う国会(DPR)がある。 (イ)国民協議会(MPR) 国権の最高機関。憲法の制定及び改正、正・副大統領の選出、「国策大綱」の策定等を行う。1年に一度開催される。 議員定数700名。このうち500議席は国会議員が兼任。残りの200議席は、地方代表議員135名(27州×5名)と各種団体代表65名で構成。任期は5年間(1999年6月の総選挙により選出された新議員の任期は2004年10月1日に終了の見込み)。 (ロ)国会(DPR) 一院制。議員定数500名。このうち462名が総選挙(州毎の比例代表制)による選出議員。残り38名は大統領による国軍・国家警察からの任命議員(軍人は選挙権及び被選挙権を有していない代わりに大統領任命により国会に議席を確保。次回総選挙では国軍の任命議員は廃止される予定)。任期は5年間(99年6月の総選挙で選出された議員の任期は2004年10月1日に終了の見込み。)。 99年6月7日に実施された総選挙の結果(国会における各政党の議席数。1999年8月4日のハビビ大統領(当時)による大統領決定によって確定。)は次の通り(次回総選挙への参加条件である10議席以上獲得した政党のみ。)。 インドネシア国会内の主要政党議席数 政 党 名 得票率 議席数 党 首 名 闘争インドネシア民主党 33.74% 153 メガワティ・スカルノプゥトゥリ ゴルカル党 22.44% 120 アクバル・タンジュン 開発連合党 10.71% 58 ハムザ・ハズ 民族覚醒党 12.61% 51 マトゥリ/アルウィ・シハッブ(注) 国民信託党 7.12% 34 アミン・ライス 月星党 1.94% 13 ユルリル・イザ・マヘンドラ (注)民族覚醒党は2派に分裂している (3)大統領 (イ) 大統領は、国家の元首であると共に行政府の長を兼ねる(首相職は無い)。 内閣は大統領の補佐機関で、大統領が国務大臣の任命権を持つ。 (ロ) 大統領は、国軍の最高指揮権を掌握する。 (ハ) 大統領は、国民協議会の策定する「国策大綱」に従って国政を遂行し、国民協議会に対して責任を負う。 (ニ) 国会は大統領を罷免出来ず、大統領は国会を解散出来ない。 3.最近の内政・治安情勢 (1)総選挙の実施とアブドゥルラフマン・ワヒッド政権発足 99年6月7日、新しい選挙制度の下で実施された総選挙の結果、国会定数500議席(うち38議席は国軍・国家警察への配分議席)のうち、メガワティ総裁率いる「闘争インドネシア民主党」が153議席、「ゴルカル党」が120議席、「開発連合党」が58議席、「民族覚醒党」が51議席を獲得した。 同年10月20日、国権の最高機関である国民協議会(MPR:定数700名、うち500名は国会議員が兼任)において新大統領選出のための投票が行われ、アブドゥルラフマン・ワヒッド・ナフダトゥール・ウラマ(NU:インドネシアにおける最大のイスラム社会団体)総裁がメガワティ闘争インドネシア民主党総裁に60票の差をつけて過半数を制し、第4代大統領に選出され同日就任した。また、翌21日には副大統領選出のための投票が行われ、メガワティ闘争インドネシア民主党総裁がハムザ・ハズ開発連合党総裁に100票以上の差をつけて副大統領に選出され、同日就任した。 (2)アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領解任とメガワティ大統領の就任 (イ)政権発足とその後の動向 99年10月29日、アブドゥルラフマン・ワヒッド内閣が発足した。同内閣の構成は「国家統一内閣」の名称に相応しく挙国一致的色彩の強いものであったが、逆に同内閣が各政党勢力間の政治的妥協の上に成立したことから、その後閣内不一致・調整不足が露呈し、短期間のうちに調整大臣2名、国家官房長官、同代行、経済閣僚2名が閣外に去る結果となった。また、大統領府及び国家・内閣官房府に大統領の側近や身内を配置して内政に臨むという大統領のスタイルが顕著になり、更に、大統領の物議を呼ぶ言動が世論を騒がせることも目立つようになり、新政権発足直後の改革に対する国民の高い期待感にも翳りが見えはじめた。 2000年4月以降、大統領による身内の政府機関への配置や大統領周辺へのヤミ献金疑惑が浮上し、イスラム政党勢力や政治社会団体からの批判が高まった。同年8月の国民協議会年次総会に向け、これらの勢力を中心に大統領に対する批判・反発が強まり、一部には大統領の罷免・解任を求める急進的な動きも表出した。しかし、大統領は、内閣改造とメガワティ副大統領に対する日常内政職務の委任方針を打ち出すことによって当面の政治対立を回避した。 (ロ)大統領の弾劾とメガワティ新大統領の誕生 大統領に対する批判と引き降ろし工作はその後も国会における一部勢力を中心に継続し、国会は、2001年2月1日、汚職疑惑(「ブログゲート」及び「ブルネイゲート」)への大統領の関与が推定されると結論づけた特別委員会の報告書を賛成多数で受諾し、大統領に対する「警告覚書(Memorandum)」の発出を無投票で決定した。 5月30日、国会は大統領の政治姿勢には改善が見られないとして、国民協議会に対して大統領の責任を問うための特別総会開催を要請することを正式に決定した。これに対して、大統領は、自らの疑惑への関与を否定し「警告覚書」発出には憲法上の根拠がないとしてこれを拒否した。また、非常事態宣言の発令に基づき国会を凍結するための強硬措置を示唆する等、国会との対決姿勢を強めた。更に、大統領による強硬措置に反対しつつ政治的対立解消に努力してきたスシロ・バンバン・ユドヨノ政治・社会・治安担当調整大臣を含む主要6閣僚を解任したのをはじめ、6月以降、計5回の内閣改造を行う等独断的な手法が目立つようになってきた。 7月23日、大統領は、(1)国会及び国民協議会の凍結、(2)総選挙の1年以内の実施、(3)ゴルカル党の凍結、を内容とする「大統領告示」を発表した。これに対し、現職閣僚、警察ともに同大統領告示に対して反対又は拒否を明言した。 同日、国民協議会本会議が開催され、開始冒頭、最高裁が「大統領告示」は違憲であるとの見解説明を行い、その後、投票の結果、同告示を無効とする決定が行われた。その後、国民協議会は、満場一致で、大統領を解任する決議案とメガワティ副大統領を大統領に昇格させる決議案を可決し、メガワティ第5代インドネシア共和国大統領が誕生した(任期は2004年10月まで)。 同月25日、国民協議会特別総会において副大統領選挙が実施され、26日、イスラム系政党の開発連合党の総裁であるハムザ・ハズが第9代インドネシア共和国副大統領に選出された(任期は2004年10月まで)。 8月9日、メガワティ大統領は閣僚名簿を発表。組閣に若干手間取ったが、結果として、各政党や国軍等各政治勢力に配慮しつつ、経済閣僚を中心に全体として実務型の内閣となった。また、国防大臣には前政権同様、文民を起用したが、その一方で、国軍関係者を4名(閣僚級ポストを含む)起用し、国軍にも配慮した形になった。(新内閣(通称「ゴトン・ロヨン(相互扶助)内閣」)の閣僚名簿は別添の通り) メガワティ大統領は、8月16日の国政演説において、政治危機の克服を宣言しつつ、憲法改正を含む今後の改革と民主化への取り組み姿勢、国家の統一性の堅持や内閣の作業プログラム(注)等につき包括的に説明した。また、清廉な政府を目指す姿勢を強調した。 (注)新内閣の作業プログラム (A)人権を尊重し、改革と民主化を継続 (B)経済活動の正常化及び国民経済の基盤強化 (C)法の確立及び汚職・癒着・縁故主義(KKN)の撲滅 (D)自主積極外交の実施、国民と国家の尊厳の回復、及び国際社会の信頼回復 (F)自由・秘密・直接投票による2004年総選挙の実施準備 11月1日〜9日まで国民協議会年次総会が開催され、メガワティ大統領が施政報告演説を行ったほか、憲法を一部改正し、正副大統領の直接選挙実施、地方代表議会の設置、憲法裁判所の設置等につき決定された。 10月以降、アクバル・タンジュン国会議長(ゴルカル党総裁)が関与したとされる食糧調達庁予算外資金流用疑惑が発覚し、2002年1月7日、最高検察庁は同議長を容疑者として正式に発表し、3月7日には同議長を最高検内の拘置所に勾留した(「ブログゲート II」)。現在、公判中(3月25日に初公判が行われた)。一方、国会において、3月7日、本件に関する国会特別委員会設置につき議論がなされたが、3月18日の国会本会議まで延期するとの決定が採択された(3月18日の国会本会議では、次期国会(5月11日より開会)まで決定を再延期することが決められた)。 (3)地方情勢 (イ)アチェ情勢 インドネシア最西端のアチェ特別州においては、スハルト大統領辞任後の98年7月以降、インドネシアからの独立を念頭に置いた「住民投票」の実施を求める学生グループ及び独立アチェ運動(通称:GAM)の動きが活発化し、特に、GAMと国軍との間で武力衝突が頻発した。この結果、治安が悪化し、また一時数万人規模と言われる域内避難民が発生した。アチェ住民は、過去の国軍等による住民虐殺等の人権侵害事件に対する調査等を強く要求し、これに対し、インドネシア国会において「アチェ問題特別委員会」が設置され過去の人権侵害事件等につき集中討議が行われ、また、司法手続きを含め事実究明への方策を講じたものの、顕著な成果は挙げられなかった。 アブドゥルラフマン・ワヒッド大統領(当時)はアチェ問題を重視する姿勢を積極的に打ち出し、2000年5月に中央政府とGAMとの間で「アチェのための人道的戦闘休止に関する共同了解書」が署名され、同年9月には2001年1月15日までの延長が決定された。 しかし、その後も治安状況はほとんど回復せず、中央政府内の一部にはGAMに対する強硬論も強くなった。このような中、両当事者は同了解書の期限切れを前に協議し、2001年1月9日、了解書期限切れ後更に1ヶ月間の暴力行為の停止と今後の政治対話に向けた協議の実施につき「暫定合意」に達した。2月9日及び10日には、政府側・GAM側双方の現場指揮官同士の会合が持たれ、暴力事件防止のための最高作戦レベルでの「ホット・ライン」の設置等が合意されたほか、同月16日には、双方の現場指揮官同士の定期会合とそのレベルの拡大や、政治協議プロセスの一部としての非公式予備的協議の開催等、「新たな治安に関するアレンジメントと民主的な協議」につき期限無制限の合意に達した。 しかし、現地ではその後も治安状況に大きな改善は見られなかったため、中央政府は4月11日付で「アチェ問題解決のための包括的アプローチに関する大統領令(2001年第4号)」を発出した。右大統領令は6項目(政治、経済、社会、法、治安と社会秩序、及び情報とコミュニケーション)からなる包括的アプローチを実施することを指令するもので、国軍による治安作戦の実施に承認を与えた(同年10月11日、右大統領令は大統領令第7号により4ヶ月間延長された。期限は2002年2月11日まで)。 2001年7月23日に就任したメガワティ大統領はアチェ問題を重視し、就任後初の国政演説ではアチェ問題に対する過去の政府の対応について陳謝し、特別の自治などによる問題の解決に努力する姿勢を表明した。9月8日、大統領はアチェを訪問しアチェ住民との対話を行った。 8月9日、アチェに特別自治を付与する「ナングル・アチェ・ダルサラム(NAD)特別自治法」が成立した。同法では、石油・ガス収入のアチェ特別州への配分が70%と現行法(石油収入の15%、ガス収入の30%)と較べて優遇されている他、シャリア(イスラム法)裁判所が現行裁判所と並列に設置されるなど、アチェ住民に配慮された形となった。 2002年1月22日、アブドゥラ・シャフィイGAM司令官はピディ県で陸軍戦略予備軍第330大隊との武力衝突により死亡し、ムザキル・マナフ副司令官が新司令官に就任した。上記事件を受けて、インドネシア政府とGAMの対話路線の継続が危惧されたが、2月2、3日に行われたインドネシア政府とGAMとの対話で、今後とも対話路線を継続することが合意された。また、政府は、2月10日付で「アチェ問題の早期解決のための包括的アプローチに関する2002大統領令第1号」を発出した(従前に発出されていた2001年大統領令第7号を一部改定し、延長したもの)。 (ロ)マルク情勢 1999年1月、マルク州アンボン市でキリスト教徒とイスラム教徒の間で大規模な住民抗争が発生し、多数の犠牲者が出た。その後、宗教抗争は同州南部に波及した他、同年9月以降はアンボン市で大規模な抗争が再発し、更に北マルク州にまで飛び火した。抗争の背景については、旧政治勢力の存在、住民間の経済格差、住民間の歴史的対立、扇動説などが言われている。 インドネシア政府は大統領をはじめとする政府高官がアンボンを訪問し、マルク住民自身による解決を呼びかけるとともに、軍当局は部隊を増派して治安維持に努め、また、マルク州警察本部長に中立的なヒンドゥー教徒のバリ人を起用するなど住民抗争の解決に努力した。 しかし、その後、「聖戦(ジハード)」を主張する州外のイスラム教徒の一部がマルク州及び北マルク州に潜入し、各地で緊張が高まった。2000年5月以降、「聖戦」部隊が関与したと思われる衝突事件が頻発し、両州の治安情勢は大きく悪化した。 右事態を受けて、インドネシア政府は、2000年6月26日、「非常民政事態」を発動した。これを受け、同27日、マルク州知事(非常民政事態における現地司令官)は、速やかな抗争の停止、夜間外出禁止令の遵守、10人以上が参加する集会の禁止、武器の治安当局への引き渡しの4項目を内容とする通達を発出した。 これまでの犠牲者の数はマルク州及び北マルク州の両州併せて3000名以上といわれており、また、約10万人の避難民が発生したと見られている。マルク州及び北マルク州のキリスト教徒とイスラム教徒の数が拮抗していることから、抗争は長期化かつ混迷の様相を深めた。 2002年2月11日、12日、イスラム教徒とキリスト教徒双方の代表団計70名が南スラウェシ州マリノに集まり、マルク住民抗争和解のための会合が開催された。ユスフ・カラ福祉担当調整大臣を初めとする政府調停チームの仲介が功を奏し、抗争を停止させるための11項目合意事項を盛り込んだ「マリノ協定」が採択された。3月31日、マルク州知事は、「マリノ協定」の周知が依然十分に行き届いていない地域があり、同協定によって3月いっぱいとされていた武器提出期間を1ヶ月延期することとする旨発表した。 (ハ)パプア(イリアン・ジャヤ)情勢 インドネシア最東部に位置するイリアン・ジャヤ州においては、1969年のインドネシアへの帰属決定後も中央政府に反発する「自由パプア運動(OPM)」の抵抗が散発的に発生していたが、スハルト政権下においてはそれ程大きな動きには至っていなかった。 しかし、スハルト政権崩壊後、州内各地で西イリアン国旗(「金星旗」)を掲揚してイリアン・ジャヤの独立を要求するデモが活発化した。アブドゥルラフマン・ワヒッド政権以降、インドネシア政府は地元民と何度か対話を行っているが、住民の独立要求の声は依然として収まっていない状況にある。 2000年5月29日、ジャヤプラで「第2回パプア会議」が開催され、パプア民族、国家の主権や1969年の「自由選択投票」の結果拒否などの6項目を決議した。 これに対してインドネシア政府は、同年11月、西イリアン独立旗の掲揚を禁止し、更に、同月、テイス・ヒヨ・エルアイパプア評議会議長らを国家反逆罪で逮捕した。同議長は2001年11月に誘拐され、その後遺体で発見された。政府は、捜査チームを派遣する等、事件の早急な解明を図っている。 一方、同年11月21日、イリアン・ジャヤ州に特別自治を付与する「パプア州特別自治法」が成立し、州名が「パプア」に変更された。同法では、石油・ガス収入のアチェ特別州への配分が70%と現行法(石油収入の15%、ガス収入の30%)と較べて優遇されている他、慣習社会、宗教社会、女性社会の各代表から成るパプア国民議会が州議会と並列に設置され、また、パプア人の権利を具体的な形で保護・優先させる条項が盛り込まれた。 (4)社会・治安情勢 2001年は、6月16日より燃料価格が平均約30%引き上げられたことを受け、ジャカルタ等の都市部で、一部学生が反対デモを行ったり、バスの運転手が運賃の値上げを求めてストライキを行う等の抗議行動が見られたが、その後は平穏に推移した。また、労働・移住大臣令改正に反対する労働者のデモが発生した(特に、6月13日から14日にかけて、西部ジャワ州バンドンでは、同州議会議事堂等が投石され、敷地内の車輌が焼き討ちされた)。しかし、15日に政府が右改正大臣令を一時凍結する措置を発表したことから、その後、労働者のデモは沈静化した。 その他、治安情勢については、2001年6月19日にジャカルタにおいて爆弾事件が発生したほか、スラバヤにおいて6月22日及び24日に時限爆弾が発見される等の事例が見られた。また、9月11日の米国同時多発テロ及び米国のアフガニスタンへの報復軍事作戦の動きを受けて、ごく一部のイスラム過激派団体が米国大使前などで報復作戦反対デモを行ったが、治安当局による厳重な警戒体制もあり、これまでのところ大きな混乱には至っておらず、全体的に見て概ね平穏に推移している。なお、10月9日には在マカッサル日本総領事館に対し、学生団体等が米国の軍事行動に関する日本の立場を批判するデモを行い、正門付近の掲示板ガラスが割られる等の事件が発生したが、在留邦人に対しては危害乃至脅しの類は行われていない。 2002年1月より、燃料(平均22%)、電気料金(平均15〜20%)等が値上げされ、経済回復の遅れや米国同時多発テロ事件がインドネシア経済に与える影響とも相俟って、今後の社会情勢は引き続き注目される。 4.外 交 (1)99年11月13日、ニューヨークにおいてアルウィ・シハッブ外相とガマ・ポルトガル外相が会談し、1976年以降凍結されていた両国間外交関係の再開について基本合意に達した。右を受けて、同年12月28日、ニューヨークにて両国の国連代大使間で共同コミュニケ文書の署名が行われ、両国の外交関係が正式に再開された。 (2)豪州との関係は、豪州の東チモールへの関与の度合いが高まるにつれて、インドネシア国民の対豪州感情は悪化し、同年9月16日、インドネシア政府は東チモール問題に対する豪州の対応を理由に、インドネシア・豪州安全保障取極の一方的廃棄を発表した。その後、2000年1月、ダウナー豪州外相がインドネシアを訪問し、また、2001年6月にはアブドゥルラフマン・ワヒッド大統領(当時)が豪州を訪問する等、両国関係改善に向けた両国政府の努力は続けられた。メガワティ政権の成立直後の2001年8月にハワード豪首相がインドネシアを訪問し、関係改善に努めた。しかし、インドネシア領海を経由して豪州に向けて航行中に遭難した南西アジアからの難民の受け入れ問題を巡って、同8月以降、両国関係は再び悪化した。2001年11月のハッサン・ウィラユダ・インドネシア外相の訪豪を経て、2002年2月にはハワード首相が再びインドネシアを訪問し、国際テロ対策当における両国間の協力につき合意した。更に、同2月末には、インドネシア・豪両国の共催による人の密輸等国境を越える問題に関する地域閣僚会合の開催や、インドネシア・豪・東チモール(UNTAET)三者会合の開催等を通じ、両国関係には改善に向けた前向きな動きが見られた。一方、2002年2月のハワード首相のインドネシア訪問の際には、インドネシアの国会外交委員会が同訪問に強行に反対し、アミン・ライス国民協議会議長が同首相との会談を直前になって一方的にキャンセル等の動きも見られた。 (3)2001年7月に大統領に就任したメガワティ大統領は、最初の外遊として、全てのASEAN諸国(9カ国)を8月21日〜28日にかけて訪問し、各国首脳等と会談を行った。各訪問先国からはメガワティ政権に対する前向きな評価が表明され、かつインドネシアのASEAN重視の姿勢を示すこととなった。 (4)2001年9月11日に米国で同時多発テロが発生したが、メガワティ大統領は、当初の予定通り、9月17日〜25日までの日程で訪米した。9月19日、ワシントンにおいてブッシュ大統領との間で首脳会談を行い共同声明を発表した。共同声明において、インドネシアは、「テロに対する戦いにおいて国際社会と協力することを約束する」と明言した。一方、米国は経済発展及び司法改革等に資するためのインドネシア支援策を発表した。米国は、インドネシア政府の東チモール問題への対応が不十分との理由で、99年9月9日以降対インドネシア軍事交流を一時停止していたが、一部解除された。 (5)メガワティ大統領は、訪米後、引き続き9月26日〜30日の日程で訪日した。同訪問には、経済担当調整大臣、外相をはじめとする閣僚及び国会議員等が同行した。9月27日には、小泉総理との首脳会談を行った。同会談において、総理から、(A)インドネシアの改革努力を支援する、(B)同国の領土の一体性を支持する、との日本の基本的立場を伝達するとともに、2002年4月以降の公的債務の取扱いにつき、「繰り延べに柔軟に対処する」旨表明し、インドネシア側より高く評価された。また、メガワティ大統領は、天皇皇后両陛下との御会見の他に、衆参両議院議長、外務大臣、財務大臣及び経済産業大臣等の日本要人との会談を行った。 (6)メガワティ大統領は、2002年3月24日〜4月5日まで、中国、北朝鮮、韓国及びインドの順で外遊した。中国(24日〜28日)では、江沢民主席をはじめ政府高官と会談を行った。同大統領は四川省と福建省も訪問した他、総領事館開設、エネルギー分野の協力、無償援助等に関する文書に署名した。北朝鮮(28日〜30日)では、金正日総書記と首脳会談を行った。韓国(30日〜4月1日)では、金大中大統領と首脳会談を行い、両国間の相互関心事について幅広く意見を交換した。インド(1日〜5日)では、ヴァジパイ首相と首脳会談を行い、査証免除、宇宙研究分野に関する協力、職業訓練分野に関する協力についての了解覚書に署名した。 5.経 済 (1)概観  インドネシア経済は、個人消費や輸出入の好調等によって基本的に回復傾向にあるが、米国同時多発テロ事件の影響を受けて、9月以降、輸出入や外国投資の落ち込みが顕著になっており、インドネシア経済を取り巻く状況は一層厳しくなっている。国際社会との協調、特にIMFプログラムの着実な実行が当面の主要課題。主なマクロ指数の動向は次の通り。 <経済成長率>  2000年は4.8%と当初予想の3〜4%を上回った(98年−13.2%、99年0.2%)。2001年は世界経済の減速の中で、堅調な国内購買力に支えられて3.32%となった。 <輸出入>  2000年累計は、輸出が前年同期比27.4%増の620億ドル、輸入も前年同期比39.8%増の335億ドルと大幅な伸びを記録したが、2001年1ー11月の貿易動向は、輸出が前年同期比8.4%減の519.75億ドル、一方、輸入は前年同期比2.82%減の116.29億ドルととなっている。 <外国投資>  2000年は149億ドルと回復傾向にあったが、政情不安定等を背景に2001年は90.27億ドルと前年比41%減と急減し、99年の水準に逆戻りした。但し、年末より新規投資が増加傾向にある。 <消費者物価指数>  2000年は9.35%で、99年の2.0%と較べると増加傾向。2001年の累計消費者物価指数は12.55%となり、政府目標の9.3%を大幅に越えた。 <ルピア・レート>  メガワティ大統領就任後、8月中旬には8,000ルピア台の半ばまで回復。米国同時多発テロ事件等の影響を受けて、9月末より再び1万ルピア台に戻った。年度末に近づくにつれ、9,000ルピア台の前半まで回復した(企業による納税のためのルピア需要、IMFプログラム進展への期待等が好要因)。 (2)2001年10月24日、2002年度予算が国会にて可決成立。財政赤字幅の対GDP比率は2.5%と緊縮型予算。前提値は、為替レート:1米ドル=9,000ルピア、経済成長率:4%、消費者物価指数:9%、金利:14%、原油価格:1バレル=22米ドル。 (3)経済の問題点 (イ)民間債務問題 インドネシアの1990年代の対外債務の累積のほとんどが民間部門によるもので、93/94年度から97/98年度にかけて3倍に増加している。これは、インドネシアでは民間対外債務を国内金融機関が仲介せず、民間企業は1980年代以降積極的に進出してきた外国銀行から直接借り入れることを選択したことが背景にある。 2001年6月時点の対外債務残高は1,387.72億ドル(うち公的債務が720.42億ドル、民間債務は647.52億ドル)となっている。2000年の対外債務返済額は292億ドル(元本211億ドル、利払い81億ドル)で、内訳は、民間の返済額が239億ドル、公的部門の返済額が53億ドルとなっている(中銀統計)。 民間対外債務の解決はインドネシア側債務者と債権者である外国銀行の直接交渉の場に委ねられるが、インドネシア政府は1998年8月にインドラ(INDRA:Indonesia Debt Restructuring Agency)を設立して解決を図り、更に債権者が強制的に債権回収を行うための法環境が整備されていない状況を踏まえ98年8月に新破産法を発効させたが、法の不備が指摘されており効果を生むには至っていない。なお、インドラは2000年6月に解散した。 このことから、インドネシア政府は98年9月、ジャカルタ・イニシアティブ・タスクフォース(JITF、(下記注))を発足させ、債務返済条件の緩和交渉にあたらせている。2001年8月10日現在、JITFに登録した企業数は120社で、登録債務額は約213億米ドル(民間対外債務総額の約32%)となっているが、同日時点でリスケ合意に達したのは約122億米ドルとなっている。 (注)ジャカルタ・イニシアティブ  債権者・債務者間の債務交渉の進め方を定めたガイドライン。同ガイドラインに沿って債務交渉を側面支援することを目的として、政府関係者をヘッドに、弁護士、会計士等で構成されるタスクフォースが1998年9月に発足した。タスクフォースは、法規制の緩和及び整備に係る提言等を行う役目を担っている。 (ロ)銀行再編問題 インドネシアの銀行は貸出先の民間企業のソルベンシー(資金繰能力)の喪失により深刻な不良債権問題を抱え込み、銀行再編は1998年1月に設立された銀行再建庁(IBRA)が主軸となって行われている。 IBRAの基本的任務は、銀行再編の実施、不良債権の買い取り・回収・整理、及び民間企業から譲渡された資産の売却・資金化の3つに分けられる。 IBRAは7行あった国営銀行のうち、財務状態の劣る4行を統合し、Bank Mandiri を設立する等の銀行再編を行い、また、2001年6月現在、IBRAに移管・譲渡された資産は約350兆ルピアにのぼる等、基本的任務のうち2つは比較的スムースに進んでいる。 資産の売却・資金化については、IMFとの補足覚書で触れられた2001年12月末までの資産売却による国庫納入目標額27兆ルピアに対して、売却実績額は27.98兆ルピアと目標額を達成した。 なお、IBRAは、2001年9月13日より正式に財務省から国営企業担当国務大臣に移管された。 (4)IMFとの経済政策覚書 (イ)プログラム概要  2000年2月4日、インドネシアに対する信用拡大供与(EFF)プログラムがIMF理事会で承認。拡張的な財政政策と慎重な金融政策運営の下で、銀行システムの再建及び民間債務問題の解決を柱とした経済回復プログラムで、2000年2月〜2002年12月までの35ヶ月間に総額で約50億ドルをインドネシアに供与するもの。 (ロ)現状  2001年8月9日に発足したメガワティ内閣の新経済チーム(ドロジャトゥン経済担当調整大臣ほか)は、IMFとの協調関係を重視し、同月27日にIMF第三次レビュー・ミッションとの間でLOI(Letter of Intent:合意趣意書)の署名を了し、同LOIは9月10日のIMF理事会で承認され約4億ドルの融資が再開された。同年11月中旬、IMF第四次レビュー・ミッションが派遣され、12月13日、インドネシア政府との間で第四次レビューに係るLOIに署名した。右を受けて、2002年1月28日にIMF理事会が開催され、右LOIが承認され第四次レビューが完了した。また、インドネシア政府が要請していたIMFプログラムの1年間の延長(2003年末まで)も承認された。更に、4月9日、政府は、第五次レビュー完了のベースとなるIMF宛の書簡(short letter)に署名した。同書簡をベースにIMF理事会が4月中に開催される予定。 (5)パリクラブ(債権国会議) (イ)4月13日、パリにおいて開かれた債権国会合において、インドネシアの公的債務の繰延について、インドネシアと債権国との間で合意に至った。 (ロ)上記合意の概要は、次のとおり。  インドネシアの国際収支ギャップに応じ、2002年4月1日から2003年12月31日までに弁済期日が到来する公的債権の元本及び利子(1997年7月1日より前に契約されたものに限る)を繰り延べる。繰延期間は、ODA債権(円借款等)については20年(うち10年据置)、非ODA債権(旧輸銀債権、貿易保険)については18年(うち5年据置)とする。今次合意による繰延の対象となりうる支払額は、最大で約54億ドルに上る(そのうち日本のものは約27億ドル)。 -------------------------------------------------------------------------------- メガワティ内閣名簿 (2001年8月9日組閣、8月10日就任) 1.大統領 メガワティ・スカルノプトゥリ(闘争民主党総裁、前副大統領) 2.副大統領 ハムザ・ハズ(開発連合党総裁) 3.調整大臣(3名) 政治・治安担当調整大臣  スシロ・バンバン・ユドヨノ(元同調整大臣) 経済担当調整大臣 ドロジャトゥン・クンチョロヤクティ(駐米大使) 国民福祉担当調整大臣 ユスフ・カッラ(元産業貿易大臣) 4.各省大臣(17名) 内務大臣 ハリ・サバルノ(国民協議会国軍・警察会派会長) 外務大臣 ハッサン・ウィラユダ(外務省政務総局長) 国防大臣 マトリ・アブドゥル・ジャリル(前民族覚醒党総裁) 法務・人権大臣 ユスリス・イザ・マヘンドラ(元法務大臣、月星党総裁) 財務大臣 ブディオノ(前国家開発企画庁長官) エネルギー・鉱物資源大臣  プルノモ・ユスギアントロ(再任) 産業貿易大臣 リニ・スワンディ(前アストラ・インターナショナル社長) 農業大臣 ブンガラン・サラギ(再任) 林業大臣 M. プラコサ(元農業大臣) 運輸大臣 アグム・グムラール(政治・社会・治安担当調整大臣) 海洋・水産大臣 ロフミン・ダフリ(再任) 労働・移住大臣 ヤコブ・ヌワァ・ウェア(全インドネシア労働組合連合(FSPSI)総裁、闘争民主党議員) 居住・地域基盤整備大臣  スナルト(居住・地域基盤整備省水資源総局長) 保健大臣 アフマッド・スユディ(再任) 国家教育大臣 アブドゥル・マリク・ファジャル(ムハマディア副総裁) 社会大臣 バクテイアル・ハムシャ(開発連合党副幹事長) 宗教大臣 サイド・アギル・ムナワル(ナフダトゥール・ウラマ(NU)協議機関(シュリア)事務局長) 5.国務大臣(10名) 文化・観光担当 イ・グデ・アルディカ(再任) 研究・技術担当 ハッタ・ラジャサ(国民信託党幹事長) 協同組合・中小企業担当  アリマルワン・ハナン(開発連合党幹事長) 環境担当 ナビル・マカリム(元環境影響統制庁(BAPEDAL)長官補佐官) 女性問題担当 スリ・レジェキ・スマルヨト(ゴルカル党副総裁) 国家機関強化担当 ファイサル・タミン(国民協議会団体会派会長) 東部地域開発促進担当 マヌエル・カイシエポ(前同副大臣) 国家開発計画担当兼国家開発企画庁  (BAPPENAS)長官 クイッ・キアン・ギー(元経済担当調整大臣) 国営企業担当 ラクサマナ・スカルディ(元投資・国営企業担当大臣) 通信・情報担当 シャムスル・ムアリフ(ゴルカル党副幹事長) 6.その他 (閣僚と同格;3名) 国家/内閣官房長官  バンバン・ケセウォ(前副大統領補佐官) 検事総長 ムハンマッド・アブドゥルラフマン(前最高検察庁検事)(8月15日任命・就任) 国家情報庁長官  ヘンドロプリオノ(元移住大臣)